ビザンツ帝国とは
西ローマ帝国が滅亡した(476年)後も、東で約1000年さらに続いたローマ帝国の後継国家を指す名称です。コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を首都とし、ギリシャ語を公用語として使用しており、自らを「ローマ人」と呼び、正統なローマ帝国の継承者を自任していました。「ビザンツ帝国」という名称は当時使われていた言葉ではなく、はるか後代の西ヨーロッパの歴史家たちが古い都市名「ビザンティウム」にちなんで付けた呼称とされています。
コンスタンティヌス大帝と遷都(330年)
コンスタンティヌス大帝がギリシャの古い植民都市ビザンティウムを新たな首都と定め、「コンスタンティノープル」と改名しました。ボスポラス海峡に位置するこの都市はヨーロッパとアジアを結ぶ交易路の要衝であり、三方を海に囲まれ防衛にも有利でした。こうした地理的利点のおかげで、コンスタンティノープルはその後千年以上にわたり帝国の中心的役割を果たしました。
ユスティニアヌス大帝の全盛期(6世紀)
ユスティニアヌス1世はかつてのローマ領の一部を取り戻そうとし、ローマ法を集大成したことでもよく知られています。北アフリカとイタリアの一部を一時的に再征服し、彼の命で編纂された法典(一般に「ユスティニアヌス法典」と呼ばれる)は、その後ヨーロッパ各国の法体系に影響を与えたと評価されています。この時期に大聖堂ハギア・ソフィアも建立されました。
ハギア・ソフィア、ビザンツ建築の象徴
ユスティニアヌス時代に建てられた大聖堂で、巨大なドーム構造が特徴のビザンツ建築の代表作です。完成当時、世界最大級のドーム屋根を持つ建物の一つに数えられました。1453年のオスマン帝国による征服後はモスクとして使われ、その後博物館を経て再びモスクへと用途が変わるなど、時代に応じて何度も使われ方が変わりました。
ギリシャ正教会と東西教会大分裂(1054年)
ビザンツ帝国はギリシャ正教信仰の中心地であり、1054年にローマ・カトリック教会と正式に分裂しました。教皇の権威を認めるかどうか、典礼や教義上の違いなどをめぐる対立が長期間積み重なって起きた出来事とされています。この分裂によりキリスト教は大きくローマ・カトリックと正教会に分かれ、今日まで続いています。
ギリシャ・ローマ文化の保存
西ヨーロッパが混乱を経験していた時期にも、ビザンツ帝国は古代ギリシャ・ローマの学問と文献をかなりの部分保存していました。こうして保存された古典文献と学問の伝統は、その後イスラム世界との交流、そして15世紀以降西ヨーロッパの学者たちに再び伝わり、ルネサンス期の学問復興に影響を与えたと評価されています。
衰退の始まり:十字軍と内部対立
1204年、第4回十字軍が同じキリスト教国であるビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを略奪したことで、国力は大きく揺らぎました。その後領土の縮小と王位争いなど内部対立が続く中、新たに勢力を伸ばしたオスマン帝国が小アジアとバルカン地域へ勢力を広げ、帝国は次第にコンスタンティノープル周辺だけへと領土が狭まっていきました。
コンスタンティノープル陥落(1453年)
オスマン帝国のスルタン、メフメト2世による大規模な攻撃で1453年にコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国は滅亡しました。この出来事はしばしば中世の終わりと近世の始まりを告げる象徴的な出来事の一つとして語られます。陥落後、コンスタンティノープルはイスタンブールと改名され、オスマン帝国の新たな首都となりました。
テオドシウスの城壁と都市防衛
5世紀に整備されたコンスタンティノープルの陸側の城壁は、何重もの壁と堀から成る堅固な防衛線で、長い間この都市を守ったと評価されています。1453年に大砲を使ったオスマン軍に破られるまで、幾度もの包囲に耐えました。海側からの攻撃には、港を鎖でふさぐ手段も用いられたとされます。
ギリシア火と海軍力
7世紀ごろに実用化されたとされる「ギリシア火」は、水の上でも燃え続ける兵器として知られ、海上の防衛で重要な役割を果たしたと伝えられます。正確な成分は現在も十分には分かっていません。海軍力と、首都の位置の有利さが、帝国が長く存続した理由の一つに挙げられます。
金貨と交易による経済力
帝国は、ソリドゥスと呼ばれる金貨を長い間安定して発行し、地中海世界の国際通貨のような役割を果たしたとされます。コンスタンティノープルは東西の交易の結節点で、絹などの贅沢品の取引や税収が国家財政を支えました。ただし、時期によって財政状況は大きく変わっています。
聖像破壊運動(イコノクラスム)
8〜9世紀には、聖像(イコン)を崇敬することの是非をめぐる大きな論争が起き、聖像の使用を禁じる時期と復活する時期が繰り返されました。この論争は、帝国内の政治や宗教界を二分したとされ、最終的に9世紀半ばに聖像崇敬が復活したことで知られています。
バシレイオス2世とスラヴ世界への影響
10〜11世紀初めの皇帝バシレイオス2世のもとで、帝国はバルカン半島などで勢力を回復し、最盛期の一つを迎えたといわれます。また、ビザンツの宣教師が活動したことで、東方正教の信仰や文字文化(キリル文字の起源に連なるもの)がスラヴ世界に広まり、ロシアなどの文化に長く影響を与えました。
マンジケルトの戦いとラテン帝国
1071年のマンジケルトの戦いでセルジューク朝に敗れたことは、小アジアの支配を弱める転機になったとされます。1204年の第4回十字軍による占領後は、ラテン帝国が建てられ、帝国は一時分裂しましたが、1261年にコンスタンティノープルは奪還されました。ただし、その後の帝国は往時の力を取り戻すことはできませんでした。